「人間の本性を考えるーー心は「空白の石版か」」
スティーブン・ピンカー
を読む.
ピンカーというと,「言語モジュール説」なので,我が研究室では評判がよくないのだが,
原理主義的なところではなく,細かなレベルとしてどのように考えているのか知りたかったので読んでみる.
ところどころに「生まれか育ちか」について歴史的に大きな揺れがあったことが紹介される.日本にのほほんと住んでいると,ある本を出版することによって,それが人種差別的であるなどいう理由のために抗議運動が起きることはあまり想像できないが,アメリカではそういうことがしょっちゅう繰り返されていることは,ある意味すごいな,と思ってしまう.
さて,認知ロボティクスの基本的な目的の一つは,ある認知能力は学習によって獲得可能であることを示すことなのであるが,そう言ってしまうと,それは「心が空白の石版」であるという立場側に立っているのかもしれない.研究でも強調されるのは学習可能性についてであり,それを可能とする基盤メカニズムが遺伝的に存在することを示唆する,なんてことはあえて言わないことが多い.
ピンカーは,そのあたりのことを指摘し,
「ニューラルネットワークは心的構造を統計的学習に置き換えられるという風説は正しくない.単純でジェネリックなネットワークは,ふつうの人間の思考や発話の要求にこたえられない.複雑な特殊化されたネットワークはいわば石のスープで,興味深い仕事のほとんどがネットワークの生得的な設定によってなされている.」
と述べている.
しかし,ある学習をするための仕掛けというのは,どういうものであったら認められるのだろう?明らかに設計者視点なものであったら,「そりゃー,そういう設定にしたら学習できるのはあたりまえじゃん」なんて避難を避難されることは多いが,それが生物に存在し得るかどうか,という視点ではあまり議論されないように思う.
一方で,saliency であったり,sparseness であったり,情報エントロピーであったり,より情報の操作的に一般的なものは認められやすい.
でも,ネットワークの特殊化,つまり生得的な特殊化が,そういったものだけで説明するのは難しいんじゃないかなぁ.ヘビがきらいとか,おっぱいが好きとか,そういうのはどうしたらいいんだ?
などと,研究のアプローチについて考えさせられる(ピンカーに簡単に感化されている?)今日この頃なのでした.